いちにちいちにちざっかん

一日一個思ったことを書きたかった成れの果て。

一曲完結型のストーリー

とある記事をみてビビる。

カバー駄話 感想戦 -- 「ストーリー」「必然性」「文脈」は必要?不要? http://regista13.blog.fc2.com/blog-entry-69.html

これを読んでちょっと前々から思ったこともあったので、引用しながら記事を書きます。
(取り上げる内容としてはかなりズレてるので、連想ゲームみたいなものです)

 上記の記事の総括として以下の文にまとめられていた。

・なんだかんだで音楽におけるストーリーみたいな話は求められている、でもそれを強く発信できる主体が変わりつつある
・自分が聴きたいものを聴けば良いからストーリーなんて関係ないという空気は、世の中全体の大きな風潮とつながっているのでは

 上記の記事のなかで語られた「ストーリー」を自分なりの解釈で噛み砕くと、「アーティスト個々のバックグラウンドで紡ぎだされた物語だったり、フェスという祭を作り上げる・実際のライブを行うというまでの一連の物語のこと」という見解に至った。

 まとめの一文からもわかるように、「若者がストーリーを求めていないのでは?」という話を展開されているのですが、私はむしろ「若者はわかりきったストーリーを求めてるのでは?」と思っていました。




 何故こんな見解に至ったかというのは、最近の大衆の若者ウケする楽曲は1曲完結の話を歌詞に載せてるモノが多い気がするからです。

具体例を出しましょう。 例えばファンキーモンキーベイビーズ。
「告白」では好きな子に告白をする物語を歌詞に乗せており「ヒーロー」では働く父親像を投影した歌詞になっています。

また、BUMP OF CHICKEN
アルバムのTHE LIVING DEADがイメージに一番近いもので 、全てが1話完結の絵本のようになっています。

更にボカロ界隈。
悪ノ娘」シリーズに代表される御伽話のように語られる楽曲。 「カゲロウプロジェクト」のようなひとつの世界観の元で展開される楽曲たち。

 どれも共通して言えることは、どの曲も「小説」のように登場人物達を明確な像で個々の頭のなかで想像してもらって、それを各々の心で楽しんで貰いたいという意図が見えるのです。
否定的に解釈すると「作り手が提示した切り口以外ではなかなか楽曲をしにくい」というところです。

 逆にスピッツの「冷たい頬」なんかは真反対に位置してると思います。 失恋の歌なのか、それとも死にゆく恋人を描いた歌なのか、歌詞からふくらませる想像は聴き手に委任されています。そこに明確な像を示していません。

 そういう意味で若者は「ストーリー」を欲している、けれどもアーティストが持っている壮大なバックグラウンドを欲してるのではなく、一曲完結型のわかりやすい「ストーリー」を所望しているんじゃないかなと思います。
 活字よりもマンガ、マンガよりもアニメ、よりわかりやすく感動できるもののほうが歓迎されている風潮もある世の中です、そんな流れにそって、泣きたいときに泣けるストーリーの曲聴いて、恋愛している時に恋愛に励むストーリーの曲を聴く。そんな感じ。




 この切り口が悪い、とは思いません。むしろ作り手が提示したものを聴き手が語弊なく吸収してくれる切り口なので凄い伝えやすい手法なんじゃないかなと思います。
 むしろこの曲のチョイスの仕方って昔からあって、この「曲単位のストーリー」を楽しんで、その作者である「アーティストのストーリー」にハマって行く、ってのがよくあるパターンじゃないかなって思ったんですが、それが少なくなっている気がするんですね、そこまで深いものを追う余裕が無いのかなと思うんです。  周りの聴いている音楽が多様化しすぎて、その潮流に合わせていこうとすると、ひとりひとりのアーティストのストーリーを体感してると流れに乗り遅れてしまう。だから消耗品のように、周りに合わせるために聴いて楽しむ、みたいな。浅く広くが一般化してしまい、深く浅くがトレンドじゃなくなってしまったような。

 個人的には聴き手によって想像する世界が変わる曲のほうが好みなんですけど、そういう曲はウケないから減ってる気がするんですよねー。それが少し悲しくてこんな記事を書いた次第です。

 サカナクションが流行ってたりするのはそれとはまた別次元なんだろうなぁと思うのでそれもつらつら書きたいしだいです。